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人は碁盤の目を目指す

  • 執筆者の写真: Masumi Nakahara
    Masumi Nakahara
  • 2017年10月29日
  • 読了時間: 2分

太古の昔

まちづくりを計画した人々がわかりやすいようにと

碁盤の目システムを採用した

ニューヨークの街ではそれがとてもよく機能し、

通りのナンバーを言えばどこへだって的確に行くことが出来た

アルゴリズムか何かのように

一定のシステムに則ってものづくりを行えば、

のちのち便利がいいと人は思っている

だけど、本当はかちっとした入れ物をつくってしまうと

そこから身動きが出来なくなって

自滅型の不便を味わうことになる

私はイスラエルにいるときには円形の村に住んでいた

それはそれで延々と続く耐久レースのような

出口のない閉塞したくらしであった

今は修善寺温泉の下流に住んでいて、

上流と下流をいったりきたりする生活をしている

さらし木綿の幅のような小道に

大小さまざまな国からあつまった観光客たちが闊歩し

常日頃、進路妨害をされている

ゴーゴリの外套に出てくる主人公のような仕事をしている

お金も大してもらえないし、

きっと性に合っていない

だけど、毎日木綿の幅の小道を往復し、

外套のような日々をすごし、

ときどき、よなよな、イスラエルの村を模したコースターを製作している。

私には狡猾な器用さがあり、

バタイユのような退廃を隠し、

外套のように生きることができる

致命的なのは、東京にいた私の本性を知る友人を失ったことだ

ここには外套である私しか知るものがいない

自分で選んだはずの配偶者でさえ、

私のことを外套だと思い込んでいるだろう

ある時の私はそれでは「愛」など存在しえないだろうと思っていた

自分の作品を愛している人でなければ、

一緒になど暮らしていけないだろう、と

ただ、どうだろう

実際になってみれば、自分の本質を知られていないほうが好都合だったりする

彼は私がよなよな何かをつづっているなどと夢にも思っていないだろう

私の日常は、外套のように働き、

ときどきテニスやゴルフを楽しみ、

碁盤の目や歯車の部品であることで生活が成り立っている

私は器用だからそれでいいのだろう

私は器用だから何にもなれないのだろう

現実というものはそういうものなのだ

人は碁盤の目を目指すのだ

外套のようなまじめな人間を目指すのだ

人からはつまらない人間だと思われておいたほうがいい

実際に取るに足りない人間なのだから

 
 
 

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