女学生への教え
- Masumi Nakahara
- 2017年7月25日
- 読了時間: 2分
本を買うからと言えば、 どんな親だってお金を出さざるを得なくなるような 教育にはそのような神聖な大義というものが備わっている
だけど、そのお金でお遊びに行ってしまったり、 化粧品を買ってしまったりするような狡猾さが女学生にはある
ある時の私はそのような狡猾で怠惰な女学生であった。
知的好奇心よりも性的好奇心が勝り、 行動いちいちが生々しい青春特有の自堕落であった。
その当時の私はIS-LM曲線や情報の不完全性、 「デリバティブとリスク管理」になど全く興味はなく、 唾をつけた右手の人差し指をかかげて風を読むような、
感覚的、刹那的、一時的な感傷の世界に夢中になっていた。
自分がいつか母親になるなんて想像できなかったし、 子どもを育てることがどんなことなのかを想像しようともしなかった。
ラテックスの手袋のように 何もかもが使い捨てのように ただただ成熟を浪費していた。
「何もすることがないな」と夏休みの間ずっと、 宿題も、アルバイトもせずに川下りをし、 たどり着いた川下で人をだましたりしていた。
今思えば、なんて無駄な時間を過ごしていたんだと思う。
はじめるのに遅いことなどない。 人は学びたいと思ったときに学ぶことが出来る。
そういった格言はおそらく正しい。
ただ、勉強があるとき持っていた神聖な大義は 女学生が学生の時にしか存在しない。
本を買うからと言ってお金をせびることはできなくなる。
学びたいなら自分でお金を出さなければならない。
そして、子どもが出来れば、 勉強は余計なことにだってなる。
試験日があと2週間先に迫っていようと、 こどもが泣いている横で本を読むわけにはいかないのだ。
「家に帰ってきてまで、仕事して」 と、冷たい目線を送られる。
そこに勉学の神聖さは通用しない。
こどもが眠るのをじっと待ち、
一緒に眠ってしまわぬように耐え、
そこからもう一度起き上がる困難さと言ったらない。
想像してほしい。
起き上がり、そして意味不明な言葉が並んだ本を開く勇気を。
かつて自由な学びを許されていた女学生は思うのだ。
どうしてあの時、デファクト・スタンダードやコア・コンピタンスについて勉強しておかなかったのだろう、と。
私はどうにかしてこの教訓を女学生に伝えたい。
私も女学生だった時分に、親や教師に言われていただろう。
「勉強はできるときにしておけ」と。
それを棚にあげて、
今、追いまくられている私も女学生に
そう口を酸っぱく忠告したい気分なのだ。



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