親の資格
- Masumi Nakahara
- 2017年6月12日
- 読了時間: 4分
親の資格などというものは存在しないのです。
国もそのような制度は用意しておらず、試験も行われていません。
認可制もとっていなければ、許可制、申告制も取っていません。
そういうことでみんながみんな無資格、無許可で子を育てているわけです。
すべてが整備されつつある世の中で、
身分証明証などを提示する必要なく、
一人の人をこの世に増やすことができるのです。
私「一人子どもをもうけようと思うのです」
役所「はい。それでは個人番号、所得証明書、戸籍謄本の提出を願います」
私、提示します。
役所「それでは会計課にお進みいただき、登録税5万円をお納めください」
私、納めます。
こんな手続きは存在しません。
無計画に自由に子どもを作っていいのです。
煩雑かつたらいまわし的な手続きの多い世の中に慣れてしまった私には少し奇妙な感じがします。
子供が欲しければ、相手を募り、実行するだけでよいのです。
相手の同意と神の恩恵と時機さえ合えば、
あなたも私も自由に親になれるのです。
今日、子どもを迎えに行くと、 「つるつるお山に登るから見ていて」と言われました。
17時30分を過ぎていました。
「早くおうちに帰らないと夕ごはんが遅くなっちゃうよ」 と無認可の母は言いました。
「ちょっとだけ。おねがい。私がつるつるお山に登るところを見て」
4歳の女児は懇願しました。
夕ごはんは魚を焼くだけにしようと決め、母親は彼女の申し入れを受け、園庭へむかいました。
4歳女児はつるつるお山に登りました。
つるつるお山は標高1.5メートル程度のコンクリート製の山でした。
彼女は駆け上がるように軽々とそのお山に登りました。
「すごいね!上手に登れるね!」
母親は無資格なので、定形的に喜び、驚きの声を上げ、
「さあ、帰ろうか」 と促します。
その後も女児はつるつるお山に10回も20回も登ります。
無認可の母親はそれをいらいらしながら見つめていました。
早く帰ってごはんの支度、お風呂、明日の支度しなきゃ。
母親も無許可ながら30分、彼女のつるつるお山登山に付き合いました。
「もう6時になるから帰ろう」
と、6時をきっかけに強引に家へ連れて帰りました。
自分のペースを乱されて、半ばいらいらしていました。
時間のことや家でやるべきことに気がとられていて、彼女のつるつるお山登山をきちんと見ていませんでした。
家に帰って、急いで子どもたちをお風呂に入れ、簡単な夕ご飯を作るとそれを食べさせ、眠る用意をし、歯を磨いているとすぐに9時になってしまいました。
自分のごはんを食べる暇もなく、子どもたちを先に寝かしつけると、母親は1歳児が夜泣きをする12時まで自分の時間を与えられました。
子供たちの保育園のかばんを開け、おしぼりやエプロンなどを洗濯機に放り込み、夜の洗濯をはじめます。
おしぼりケースやお弁当箱を洗って、連絡帳を開きました。
そこで、母親は大変なことを知るのです。
取り返しのつかない罪を犯したことを知るのです。
自分が無認可、無許可、無資格の母親であることの罪を知るのです。
連絡帳:「ここ数日、つるつるお山に登る練習をしていました。
ひとりでもくもくと何度も挑戦していました。
今日、初めてお山に登ることが出来ました。
「練習すればできるようになるんだね」 と、ひとこと。
あきらめないことの大切さを教わりました。
とてもすてきなお子さんですね」
ずっと練習して登れるようになったつるつるお山なのに、どうして私はしっかり見てあげなかったのだろう。
どうしてもっと褒めてあげなかったのだろう。
何日も挑戦してやっと登れるようになったつるつるお山だったのに。
母親は叱責と断罪と免職と取消と処刑を望むのです。
「こんな母親でごめんね」
しかし、だれも処刑などしません。
「よくあることよ。あなただって忙しいんだもの」
そうやって、皆が慰めてくれるのです。
処分も解任も受けられずに、母親はただ懺悔し続けるのです。
「私なんかが子どもを育てていいのだろうか。あの聖母のような大きな愛で子どもを包むことなんてできやしないのに」
母親という存在は偉大なものです。
悩みながら進むしかない極限の場所に生きているのです。
完璧ではなくても、無免許でも、無許可でも、やっていくしかないのです。
子どもを傷つけ、自分も傷つき、傷だらけで暮らすのです。
自責と後悔の中で押し出されるように日々をやり過ごすことで精いっぱいなのです。



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